この記事は【母】が書いております
前回の記事では、息子の入学後の友達づくりの話や履修登録の話をしました。
- 大学内に知り合いがいないのであれば、わからないことを聞きあえる友達を作っておいたほうがいいこと
- 履修登録が結構わかりづらいから友達がいると助かること
- 4月中の講義はなるべく出て教師の癖を知ること
などでしたね。
高校と大学の大きな違いの一つが、自分で時間割を組めることだと思います。
シラバスを見ればその講義スケジュール(内容、進行、テスト形式、出欠確認など)が一覧になって紹介されているので、そこから模索することもできます。
ですが、シラバスという情報を知らなければ、利用できませんよね。
※シラバスとは、先生が学生に示す年間の講義計画のようなものです
このような情報もあった方が良くて、こうした情報も人を通じて得ることができます。
息子も友達やカテキョーくんの助けを受けながら時間割を決め、4月は教授の癖を知るためになるべく休まず講義に出て、その後は休みを入れながら大学生活を送るようになりました。
では、息子はどのような時間割を作成したのか?
紹介していきます。
不登校だった子は大学の講義の時間割はどのように組むのがいい?
不登校だった子供は、最初は無理のない時間割を組んだ方が良いかもしれません。
大学は、どのような学部、学科であっても授業は自分で作るのは共通ですよね?
不登校だった子供達には嬉しいシステムだと思います。
さて、息子はどんな時間割を組んだのでしょうか?
大学1年次は必修も多いのでそちらを優先的に取らないと行けず、苦手な朝一の講義もあれば、最後の時間割に入る講義もあります。
ちなみに息子の大学は、一日6コマ制。
1コマ目の開始が8:40から、6コマの終了が19:20で、夜は割と遅めです。
体力面で劣る息子は、
- 1日に入れる講義は多くても3つまで
- 6コマ目まである日は、翌日は午後から講義を入れる
- 1年あたり40単位くらいを確実に取っていく
というスタイルを取っていました。
これもね、実はカテキョーくんのアドバイスがあってこそのこと。
大学ではたくさんの苦痛も経験しているカテキョーくん。
自分の経験や反省点も踏まえて、息子に合った無理のないアドバイスをしてくれていました。
なんと言いますか、知識欲が高いカテキョーくんは息子の大学の講義内容に興味津々。
息子の授業内容や教授のタイプの話に耳を傾けていましたし、なんか楽しそうですよ(笑)
高校までのように一方的に学ぶ学問も良いけど、自分の興味がある専門的な分野で学ぶ楽しさがあるのが大学です。
不登校の子全員に当てはまる訳ではないですが、大学は不登校の子どもが輝く一つの選択肢と思って良いと私は思っています。
息子が進学したのは福祉系の大学である意味専門性が高いです。
興味がない子にとっては苦痛な学習かもしれません。
さて、学校嫌いの息子がどんな教科に興味を示したのでしょうか?
私にとっては、意外すぎる展開がそこにはありましたよ。
不登校の息子が興味を示した講義はなに?「えっ?何が起こった?」
さて、息子が興味を示した講義は何でしょうか?
まず答えを書きますね。それは、
- ドイツ語
- 仏教学
でした。
順に説明します。
ドイツ語
はじめに申し上げておきますと、息子の大の大の苦手の科目は英語で成績もひどいものでした(中学生レベルもないくらいの実力?)
その息子がなんでドイツ語???
なぜドイツ語なのか?
それは、先生の人柄、理念や考え方に強く共感共鳴したからだと言えます。
息子が選んだドイツ語の先生は、
- 英語が苦手な人に学んでほしい
- ドイツ語を学ぶことで、英語が苦手な子が英語が理解できるようになる
ということを伝えていました。
- 文法に多少の間違いが合っても、伝わればOKだよ!
- 生徒1人の1人の答えは間違ではなく、「それが正しいかもしれない」と考えてみる!
というスタイルでもありました。
まあ、◯✖️で点数がつけられる高校ではありえない考え方(笑)
息子は、このような考え方を持つ方に惹かれるんですね。
現在、この先生が現在は息子が大学内で一番大好きで尊敬する先生になっています。
先生に積極的に話しかけては顔と名前を覚えてもらい、その後にはメールアドレスを教えていただいて、今では語学に関する質問や進路の相談などさせていただくようになりました。
(女の子のアドレスではなく、先生のアドレスをゲットして喜ぶ息子でした^_^;)
住んでいるところも我が家から徒歩10分くらいのところということもわかり、なんか不思議なご縁も重なりました。
もしかしたら、師との出会いってこんな感じなのかなと、師がいない私は想像します。
このドイツ語の先生の講義に触れ、
「俺が求めていた語学の学び方はこれだー!」
こんな感じだったのではないかと(笑)
このドイツ語の先生に出会えただけでも、もう十分元は取った!
私はそう思っています。
仏教学
息子の大学は曹洞宗の仏教系の大学です。
ですから、学内にはお坊さんである教授もたくさんいて、講義も受け持っているんですね。
キリスト系だと教会があって礼拝に出たりしますよね?
仏教系だと礼拝の代わりに座禅が必修だったりします(笑)
こちらも、息子は教授の人柄に惹かれたようです。
こちらの教授は一言でいうと、陽気でおおらか、細かいことは気にしない!タイプです。
もっとも素晴らしいと感じるのは、
- その子の個性をいじらない
- その子の伸びたい方に伸ばす
というところ。
こんなタイプのお坊さんなんですね。
息子はこのお坊さんが気に入り、今はこのお坊さんのゼミにも入っています。
ゼミではお坊さんのお寺での合宿があったり、年に数回の飲み会をしたり、和気あいあいのサークルのような感じ。
集まる学生たちも個性は強めだけど、波長が合う子達が多いみたいです。
居心地は良さそうですが、ハッキリ言って一般的には「変」と言われる友人達が固まっています(笑)
このようにして書いてみると、息子は人に魅了されて、そこから人を通して学んでいくタイプのように思います。
嫌いな語学でさえ、好きに変わる可能性があることには驚きでしたし、
- 人は人によって成長する
- 人生でどんな人と出会えるか
を私に見せてくれています。そして、私に教えてくれています。
とは言っても、出会いは自分の意志ではコントロールできませんよね?
「では、どうしたらそのような人物と会えるのか?」
あなたはこのように思ったかもしれません。
これに対する私の答えは、自分の執着がなくなった時、今までの固定化された考えから解き放たれた時、つまり、自分が変化した時にご縁に恵まれたり、近くにいた大切な人に気づくことが起こるのではないか?と考えています。
自分のこだわりや思い込みが強すぎると、自分の価値観でしか見れなくなりますよね?
だから近くにいても見逃してしまう・・・
私自身もかつてはバリバリそうでしたから、わかるのです(苦笑)
息子がいたからこそ、自分の思い込みのフィルターに気付き、全てをニュートラルに捉えられるようにしよう!と意識できるようになったと思っています。
不登校と言われてきた高校までと大学との違いに、母の私が思うこと
学校という縛りから解き放たれたことで、今までと違う行動ができるようになる。
これが息子が大学に入ってから私が思うことです。
学校からの解放感は、息子から言葉ではなく空気感で伝わってきました。
そう思うと、
不登校の子供達は、高校までの間は闇の中で自分の将来の一筋の光をじっと見つめながら、エネルギーを蓄えていたのかもしれない、少し可哀想なことをしてきたなとも感じてしまいます。
その闇は、時には、親にも、周りにも理解されず苦しいものだったのかも・・・しれませんよね。
耐えるしかなかった子供達。
それが悲しいけど、今の教育と環境!ということも受け止める必要があると思います。
不登校まっしぐらの間は学校に通えないのは子どもの方の問題と思ってしまいがちですが、義務教育、高校教育という環境を作り、その環境を強固にしてきたのは私達でもある!ということに、気づくことも必要なのではないでしょうか?
「えっ?私たちが作った?どういうこと?」
このように思う方もいるでしょう。でも、中学3年になれば、
「あんた、どこの高校受験するの?」
というような会話をするのが私達だと思うのです。
中学の次は高校にいく、これは当たり前のこととして私達は考えてきているし、読んでいるあなたも高校を卒業している方がほとんどでしょう。
多くの人がこの過程を進めば進みほど多数派が多く占めることになるので、「行くのが普通」という概念が作られていくんですよね。
つまり、多くの人が同じことをすればするほど、この概念は強化されるということ。
そう考えると、私が中学に通ったことも高校に行ったことも今の日本の教育に加担したということになります。
結果、不登校の子供達を苦しめることになってしまった・・・
「伝わっています?」
わかりづらいですよよね?
うまく伝えられなくて申し訳ないのですが、息子が不登校になったのには私にも原因があると私は考えたのです。
そこには親としての直接的な原因だけではなく、私が日本の教育に何の疑問もなく従ったことによる環境の強化という間接的な原因もあるのではないか?ということですね。
まあ、こんな風なことを考える私はかなり変なヤツですけど、この仮説でもって私は責任を負う気持ちができたのです。
だから、この仮説が正しいなんて思わないでくださいね(笑)
私はこのように主体的に考えることで、自己責任と思うことができたというだけのことですから。
周りのせいにしているとどうも私はストレスになりますし、苦しくなるところがあるんですよね。
なぜなら、周りをコントロールすることは不可能だからです。
「私が悪いところもあったよね」と思うと、自分で修正する努力ができるから、楽なんですね。
不登校という言葉から離れた存在となることで、考え方の幅も豊富になってきています。
息子の高校までの時よりも、広く、教育というものを考えれるようになっているので、不登校を悲観しないでいただきたい!とお伝えしたいです。
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