不登校に罪悪感を持つ必要はない。大事なのは視点を広げること

不登校 罪悪感

 

母

この記事は【母】が書いています

 

不登校であることで罪悪感を持ってしまう方は非常に多いのではないでしょうか?

私もですね、前回の記事を書きながら、11年間に及ぶ不登校に未だに罪悪感を感じているところがあるなぁと思ったので、改めて触れてみました。

ただ、昔と今とで違う点は、

  • こうして気づけること
  • 気づいてふっと笑えること

ですね。

そして、気づいて笑えることで、少しずつ解放されて、心が軽くなっていく感じがしています。

こうしたことを何度も繰り返しながら、罪悪感は昇華していくものなのかも?と最近は思っています。

ですから、今は罪悪感を持っていたとしても、責めることはないし、焦る必要もありませんね。

少しずつ、少しずつ、氷を解かしていけばよいと思います。

 

さて、そもそも罪悪感とはなんなんでしょうね?

「自分が悪いんだと思う感情?」

もしそうだとしたら、

「その善い悪いはどこからきたの?」

「本当に悪いことなの?」

そんなことを考えていた時、私は思いました。

「あれ?私、自分で決めていない?」と。

 

「自分が勝手に悪いと決めていたんだ」

「自分で勝手に悪いと思い込んできたんだ」

 

そう思った時にふっと笑えました。

 

「なんだ。全部自分が作り出していたんじゃん?」とね。

 

なかなかピンとこない方もいらっしゃるかもしれませんが、今回は、この罪悪感というものを掘り下げて書いてみたいと思います。

 

 

なぜ人は不登校であることに罪悪感を持ってしまうのか?

 

 

初めに聞きます。

 

不登校とは悪いことなのでしょうか?

不登校は罰せられることなのでしょうか?

 

あなたの答えはどうでしょう?

 

以前の私なら即座に「悪い」と答えていたでしょう(苦笑)

でも、今の私は「おや?」と思えるところがあります。

義務教育という名前からもあることから「学校は通うべきもの」と思う方も多いでしょう。

私はそうでしたよ。

 

でも、今はこう思います。

 

子供達は、登校できないことで誰かを攻撃しているわけではない。

むしろ、一番傷ついているのは通えない本人かもしれない、と。

(中には親に心配をかけて、親を攻撃していると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その点に関しては後述します。)

 

私はここに大きな矛盾を感じました。

弱気ものを責め立てて、さらに傷つけているのは大人達なのではないか?

大人の正義だけで、学校にいくのが善、行かないのは悪、と子供達を裁いてはいないだろうか?

このように思ったのです。

 

「通える」「通えない」という視点しかないから、他のことが見えなくなっているのです。

 

通えるか、通えないか、グループはこの2つしかなくて、まるで善悪二元論。

通えるのが善だから通えないのは悪でしょ?みたいなニュアンスですね。

また、それを当然のように信じ込んでしまっているから、気づきへの道も遠くなってしまいます。

 

「そこにグレーはないのかい?」

「グレーがあってもいいのではないかい?」

 

と、今の私ならツッコミを入れたくなるし、その善悪的な解釈を抜け出さないとあなたの成長もそこ止まり、とも言いたくなるんですけどね(汗)

 

 

よく考えてみてくださいね。

正しさを主張してしまうと、それ以外は全部「悪」になってしまうんですよ。

自分の正しさで人を裁くから、抵抗も争いも生まれるのです。

喧嘩ってそういうものですよね?

 

なぜそのような価値観を持つに至ったかは、これまでの環境に依るところが大きいと思います。

我が家ではこうだった、今までこうしてきた、だからこうなんだ、と、教えられ、しつけられ、それが次第に信念になり、自分の価値観が形成されていきますね。

つまり、私達は、私たち個人の意志というより、周りの環境によって作られた意志を持っている部分もあるということ。

 

学校などはその典型例ですよね。

学校は行って当たり前のもの、誰だってこのような考えを持たされてきています。

 

頷けるところはあります?

 

「学校に行く」というのは、自分が生きてきた過程の中で、親から、周りから言われたものではないですか?

周りもそうであるから、それが当然の行為になって「行くべき価値観」になっていくんですよね。

 

何が言いたいかというと、繰り返しになりますが、

あなたの中にはあなた自身の価値観ではないものも入っている可能性が高い

ということです。

 

ここまで読んで、

 

「そう言われれば・・・」

「確かになぁ・・・」

 

このように思えたら、ちょっと進めると思います。

 

今まで不登校を悪いことと思っていた自分に気づけたのなら、なぜ悪いのかその理由をあげてみてください。

そして、それが本当にそうなのかを自分で確認してみてください。

 

私はそうすることで、

  • 不登校の子供達は誰も攻撃していない
  • 傷ついているのはむしろ本人

という視点に立てました。

 

子供が不登校であることで親を攻撃していることにはならないのか?

 

 

ここで出てくると思われる質問が、

「不登校で親を苦しめているじゃない?」

「これは親を攻撃していることにならないの?」

というもので・・・。

確かになんです。

なぜかって、私ならそう聞きたくなるからですね(笑)

 

親の方も苦しんでいます。

でも、それは子供の不登校とは関係ありません。

たとえ子供が学校に通っていたとしても、子供が自分の望む道と違う道を選んだりしたら、またそれはそれで親は苦しむからです。

きっかけが不登校だっただけです。

 

つまり、親はどこかで子供に「こうあって欲しい」という期待を持っていて、それに反することがあると、面白くなくて、勝手に苦しむんですね。

 

勝手に苦しむのです。

 

人は人に期待をして、裏切られて、自分の感情を乱します。

自分が被害者のように感じてしまうのですが、よくよく考えてみるとその感情を作っているのは自分自身なんですよね。

勝手に期待をして、勝手に裏切られたと思ってね(汗)

 

私は自分のそんな姿を認識できた時に、自分が恥ずかしくなりました。

このようなことにも気づけない自分にショックも受けました。

 

長年かけて持ってきた価値観は深く深く潜在化しています。

だから本当に気づけない。

でもですね、一度気づけたら、そこからは一気に視界が開ける感じはあります。

 

この気づきは各人適切なタイミングで訪れるとは思うので、この今私が書いている文章が全くピンと来ない方もいらっしゃるだろうし、ムカつくという方もいらっしゃるだろうと思います。

でも、敢えて書いています。

気づきを得るきっかけになったらいいのでね。

 

罪悪感を持つくらいなら、このように考えたらどうでしょう?

 

 

罪悪感はなかなか抜けるものではないように私は感じています。

不登校である罪悪感もそうですね。

現に私は今でも罪悪感がゼロとは言い切れませんから。

 

不登校に対して出てくる感情は、

「そりゃ、悪いでしょう、だって義務教育なんだから!」

最初はこんな感じからのスタートになるでしょうか?

 

でもですよ、

小学校、中学校は子供達に選択権はないですよね?

たまたまその地域にある学校が〇〇学区と定められて、その近所に住む子供達と通うことになるのです。

つまり、学校は近くのところで、友達は近所に住む友達になります。

家庭環境も違う、親の価値観も違う、教育に関する校風に共感して選んだわけもない、ただ近くの学校に集められただけです。

 

どんな家庭の子でも等しく学べる機会があるという点は素晴らしいと言えるのかもしれないけど、繊細な子にとっては、そんな便宜的な、ごちゃ混ぜ感で集められた雰囲気が「ウッ!」と来るようなものかもしれないんですよね。

呼吸が浅くなる感覚、息が詰まる感覚、そんな感じでしょうか?

 

ですから、環境が違えば学校に通えている可能性も大ありだったと私は思っていて、その地区の学校に通えないからといって罪悪感を持つ必要なんてないと思っているんですよ。

 

罪悪感を持ってしまうというのは、古い価値観に縛られているからです。

私達の時代も、そして今も学区制という枠組みの中で、学校は決められています。

でも、日本全国で見れば、学校は山ほどありますよね?

なのに、多くの子供達は地元の小学校、中学校、高校に進学するのが普通。

本当に限られた、狭い選択というのがわかります?

しかも、それが「普通」の感覚になってもいるのです。

 

どうでしょう?

それが普通と思っていませんでしたか?

 

さて、言いたいことはここからです。

 

今時代は変革期です。

今回のコロナによってそれがハッキリとしてきました。

コロナによりインターネットを使ったオンライン授業も整いつつあります。

不登校であっても、A学校のオンライン授業、B学校のオンライン授業、しかも、日本全国で好きな学校を選べるということも出てくるかもしれませんよね?

地元にはない学校で学ぶことも可能になるかもしれませんよね?

「校風」で選ぶこともできるようになるかもしれませんよね?

半分私の「妄想」も入っていますが、現実的とは思える部分もあるとは思いませんか?

 

昭和の時代は、有無を言わさず決められた学校に登校することがほぼ絶対でした。

平成の時代は、不登校の子供が増えてきて、フリースクールも増え、選択の幅は広がりました。

令和の時代は、地元の学校に行ってもいい、フリースクールに行ってもいい、オンラインで学んでもいい、になるかもしれません。

 

これからは、不登校の子供達にとっても良い環境が整っていくと私は希望を持っています。

自分に合ったスタイルで、自分に合った学校で、才能を開花させる時代も来るかもしれないのです。

 

引きこもりが才能になるかもしれない(笑)

 

ですから、学校に通えないことに罪悪感を抱いてしまうくらいなら、子供がどのような環境なら学ぶことができるかを考え、調べる方に意識を向けた方がはるかにいいと思うのです。

「引きこもり」を偏見の目で見てしまうのも、「正しいのはこっち!」という見方があるからですよね。

「引きこもり」もフラットな視点で見ることが大切です。

一番いけないのは、親世代が上記の昭和の感覚で物事をみてしまうことではないでしょうかね?

学校に通うスタイルしか考えられないというのは、ちょっと視野が狭いし、考え方が凝り固まっています。

 

スマホが主流となり、ガラケーさえもひと昔前というスピード感のある世の中です。

古典的な思想など古いものを大切にした方が良いということももちろんあります。

ですが、削ぎ落とすものは自ら削ぎ落として、アップデートしていく価値観というものもあるのではないでしょうか?

 

そのひとつが学校教育なのかもしれませんね。

色々書いてしまいましたが、最後に簡潔にまとめておきます。

 

  • 決められた学校に行けなくても、それは自分で選んでもいないのだから罪悪感を持つ必要はないということ
  • これからは、学習スタイルも、学習環境も、これまでとは比べ物にならないくらいに便利になるかもしれないこと
  • 罪悪感を持つくらいなら、子供がどのような環境でなら学ぶことができるのかを考える方が良い

 

これが私の不登校に対する罪悪感に対する考えです。

 

いろいろ思うことはあるでしょうが、良くも悪くもそれで考えていただくきっかけになったら、ハッと思っていただくことがあったらいいなぁと思います。

 

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