不登校の子供達が持っているかもしれない引きこもり感覚

不登校 ひきこもり

 

母

この記事は【母】が書いています

 

今年はコロナ一色の年。

1年を振り返るとそんな感じですよね。

私自身もこんなに家にいたことはなかったのではないかと思うくらいに引きこもった1年だったと思います。

今回は半強制的に引きこもりを体験させられたわけですが、この「引きこもり」体験が私に感覚的な気づきをもたらしてくれたようにも思います。

 

それがどんなものかというと、

 

「もしかしたら、不登校の子供たちはこんな感覚?」

「だとしたら、それは辛いよね。」

 

というものです。

 

感覚的なことなので言葉で伝えることは難しいのですが、もし、今の私が感じている感覚を子供達も持っていると仮定したのなら、子供たちが伝えることはもっと難しいだろうな、と思います。

というのも、言葉にすることがそもそもが難しい上に、その伝える相手というのが不登校を否定的に捉える人ですからね。

子供にしたら、

「話したところで理解してもらえないかもしれない」

と思う気持ちが強いかもしれないです。

 

これは親や大人が悪いというわけではありません。

親達が気づいていないから仕方なのです。

多くの方が理解できないようなことを、そして、言葉で表現することが難しい感覚的なことを、相手がわかるように伝えること、これはなかなかできないことだと思います。

今回はですね、私がコロナ禍の中でハッと気づいたその感覚、つまり、

「不登校の子供達が持っているかもしれない引きこもり感覚」

というのを伝える試みをしてみたいと思います。

 

不登校の子供達は微細なセンサーを持っているがゆえに引きこもるのではないか?

 

 

自粛するということは、外の喧騒から離れることでもあります。

仕事であれば、電車に乗って通勤し、会社に行けば難しい人間関係があって、そこで不満を感じながらも私たち何とかやっていますが、それがなくなるということですね。

学校も人間関係の場であるという点では一緒。

いろんな先生、いろんな友達がいて、子供達も対人関係を学校の中で経験して学ぶということをしています。

外に出ることはそれなりにストレスにさらされますね。

 

ストレスはいろいろあれど、今回私がお伝えしたいのは、環境そのものに対するストレスです。

どういうことかと言うと、環境そのものがうるさいと感じているのではないか?というストレスです。

 

例えばですけど、

誰でも、満員電車であるとか、混雑している病院とか、

「どっと疲れた・・・」

そういう風に感じてしまう場所ってありますよね?

感覚が敏感な子供は、学校という環境そのものがこの満員電車の中にいる感覚なのではないか?

私はそう思ったのです。

 

仮にですよ、

7時間、毎日、ぶっ通しで満員電車に乗り続けないといけないとしたら、あなたはどんな気持ちになるでしょうか?

エネルギーがどんどんなくなって、元気もやる気もなくなってしまうのではないでしょうか?

 

不登校の子供達が全員そうだとは言いませんが、

学校の空気=満員電車の空気

と感じる子がいるのかもしれないと思ったこと、不登校の子供達の中にはそのくらい繊細な感覚を持っている子もいるかもしれないということ、私は自粛生活をする中でそのように思ったのです。

 

原因が感覚の拒否だから、理解してもらえないし対処もできない。だから、引きこもる

 

 

不登校の原因は本当に多岐に渡ります。

目に見える、言葉で理解ができるものだけが原因ではありません。

もっと視野を広くとる必要があると私は思っています。

 

先生や親は、子供に対して表面的な通えない理由を求めてしまいがちなんですよね。

「何が嫌なの?」

「何が原因なの?」

と。

 

ここで、子供は正直に、

「学校の雰囲気がトゲトゲしているから」とか

「先生の雰囲気が受け入れられない」とか、

感覚的なことを伝えようとする。

 

しかし返ってくる言葉が、

「そんなわがまま言って」

的なものだったりするのです。

(私がそうだったんですけどね)

 

学校の先生も子供が学校に通えるようにという思いを持って接してくれているのですが、この繊細な感覚的な部分まではどうしても理解が及ばない。

そういうところがあるように思います。

原因がはっきりしていて、対処可能ならことだったたらまだしも、校風が・・と言われたら、それを変えることは難しいですからね(苦笑)

原因とはそういうものです。

目に見えるわかりやすいものもあれば、雰囲気とか空気とか繊細微妙なものもあるということです。

目に見えるものだけでは片手落ちということですね。

 

もっとはっきり書きましょうか!

私が子供に成り代わって表現するなら、

「学校はガチャガチャうるさすぎる」

「うるさすぎるところに一日いると、気が狂いそうになる」

ですね(苦笑)

 

でも、果たして、このようなことを訴えて、受け入れてくれる、わかろうとしてくれる大人がどれだけいるでしょうか?

なかなかいないのではないでしょうか?

そうなると子供の心は閉じてしまいます。

結果、引きもこもるのです。

 

コロナが教えてくれたのは静寂な心

 

 

私は今回のコロナで、心の静けさというのを感じ取っていました。

最初は喜びから始まり、そして、家にいることを推奨される安堵感も次第に感じるようになりました。

正直に言えば、コロナの状況が心配、不安という気持ちより、私は安堵感の方が強かったです。

家に居ていい!という安堵感ですね。

 

息子も、

「家に居て褒められるなんて最高!」

と言っていましたが、私達と同じような感情を持った方もいらっしゃるのではないかと思っています。

 

こうして書いてみてわかるのですがが、これって罪悪感ですよね?

不登校で家にいることが多く、その家にいる行為に罪悪感を持ってしまっていたということ。

私の中では、高校卒業と同時に手放したつもりでいたのですが、どうやら、実際はそうではなかったようです。

ずっと、ずっと、抱え込んだままだったんですね。

これもコロナ禍で気づいたことの一つでした。

 

因みに、自粛生活の中での私の感情の流れを書いてみると、

  1. 家にいることを余儀なくされることで、心が楽になってくる
  2. 心が楽になるから、気分が良くなってくる
  3. 気分が良いから、家にいても気持ちよく過ごせるようになってくる
  4. 気分が良いから、家事も義務ではなく楽しくできるようになってくる
  5. 気分が良いから、家での趣味も楽しいと感じるようになってくる

こんな感じでした。

 

まぁ、毎日が天国かというと決してそうではなくて、イライラすることもあるんですけどね(苦笑)。

でも、以前よりは私自身は穏やかに過ごせています。

(息子は夫が家にいるので、そうは思っていないでしょうが^^;)

 

換気やら、掃除やらを意識してやっていたことで、空気感がよくなっていたというのもあるでしょう。

しかし、それだけではないですね。

「外からの雑音が入らない環境」

このことも心に静けさをもたらしてくれたのだと思います。

今となっては静かなことに慣れすぎて、外に出るとうるさいと感じるし、すごく疲れます。

昔は好きだったカフェも落ち着かない感じになってしまいました。

 

感覚が繊細になって、かえって生きづらくない???

と思われるかもしれませんが、私はこれが本来の人間が持つ感覚だと思うんですよね。

皆、騒音や人混みに慣れてしまって、そっちが普通になってしまっているだけなんですよ。

私の感覚が繊細になったのではなく、元あるポジションに戻ったという風に捉えています。

  • この静かさがニュートラルという感覚、
  • 外が騒々しいと感じてしまう感覚、
  • この感覚が不登校の子供達が持っている感覚なのかもしれない、

というのが伝えたいことです。

人間のセンサーというのは正直です。

そして、普通の人より敏感に反応してしまう人も中にはいて・・・。

ある人にとってはノイズにならないこともある人にはノイズになってしまうことがある。

これは、子供の方がより敏感なのかもしれませんね。

不登校の子供達の中に、こういう感覚になっている子はいないかなぁ。

私の思い込みかなぁ。

でも、私の考えが的外れでもいいんですよ。

こうした視点を増やしておけば、そういう視点で見ることができるということですからね。

視点を増やすことで、不登校を理解する。

できることではないでしょうか?

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました