この記事は【母】が書いています
2021年3月18日、息子が大学を卒業しました。
最終年はコロナによる完全オンライン化の講義だったので、大学内での生活は実質3年という形でしたね。
ここで学生生活は一旦区切りを迎えます。
今後のことはまだ未定ですが、私の感情はとてもニュートラル。
心配に偏ることもないし、希望に満ちているということもないです。
なるようになるんだろうな、予期しなかったことも起こる可能性もあるんだろうな、という風に感じています。
これからはですね、志を立てて、息子なりの方法で人生を歩いていってくれるなら、多少時間がかかっても問題ないと私は思っています。
ちなみにですが、息子の学生生活最後の言葉は、
「大学を卒業するのは寂しい。一番楽しかった」
でしたよ。
11年学校に通えなかった不登校だった息子の言葉がこれ(笑)
このように考えると、非常に深いものがあります。
何より私自身が本当に多くのことを学びました。
なぜ学校に通えないんだろう?と悩んだこと
どうしたら学校に通えるようになるかと必死だったこと
不登校で将来大丈夫だろうかと常に不安だったこと
過去の私は悩みだらけ。
でも、今の私はというと、
不登校を恥ずべきこととも思っていないし、人にも不登校のことを感情的にならずに話せますし、時が経つごとに不登校に関する負の感情は薄れていくようです。
「そんなに悩んでいたっけ?」
「今から思うとちっぽけだな・・・」
という感じでしょうか?
仮に、
「あなたのこれまでの人生で一番辛かったことはなんですか?」
と聞かれたら、
今の私は「息子の不登校」とは言いません。
不登校時にあった別の問題のことを挙げます(汗)
悩みが悩みでなくなるというのは、自分が向き合うべきテーマを乗り越えたということなのでしょう。
では、私が向き合わないといけなかったテーマは何だったか?
今回はこのことを振り返ってみたいと思います。
息子の不登校で私が向き合わないといけなかったことは何だったのか?
私が子育てにおいて信じていたことは、
- 幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、就職という周りと合わせながら成長するということ
- その過程で自分の進み道を選んでいく
というものでした。
若い未熟な母親なりに、息子にとって良いだろうと思える未来を描いていたんですよね。
私が持っている息子の理想的な未来像は、自分らしさを生かせる職業で社会に貢献してくれたらというもので、これは昔も今も変わっていないのでは?と思います。
到達する未来像に今のところ変化はないけれど、我が家の場合はそこに至る「学校」という過程で大きく躓いたんだなと。
今書きながら思いますけど、
伸び伸び個性を発揮しようと思ったら、今の学校生活では窮屈なわけで、私のこうした未来像が不登校を招いた側面もありますね(苦笑)
学校を通して私自身が学ぶ必要があったのだろうと思っています。
さて、では、ここに隠れているテーマは何だったのでしょう?
それぞれの子供達が持つ個性を伸ばすという観点で見るなら、
「「学ぶ」というのは、学校という「場」だけではないよ。もっと広い目で捉えてみて!」
という視野の広さを持つことだったのではないかと思います。
大事なことは「学ぶ」ということ、「場所」に執着するなということです。
きっと、私は教育のルートに対する執着が人より強かったんでしょう。
だから、その思考の癖を不登校でただされた。
この考えが私には一番しっくりきますね。
わからないことがあったら、自分でわかるまで調べて学んでいくことは必要です。
教えてもらってばかりでは身につかないこともあるでしょう。
自分が主体的に学ぶ姿勢が大事であって、それはむしろ学校ではない所で求められるのかもしれません。
学校だけが学びの場なのではなく、学ぶとは本来はもっと広いもの。
これが私が気付き、学んだことですね。
ですから、今は子供達を見る目が前よりずっと、ずっと、ニュートラルになりました。
以前の私なら、
- 成績が良くて、有名校、有名大学にいく子はすごい
- スポーツで活躍する子がすごい
恥ずかしいけれど、こんな低レベルな見方を無自覚でしていましたね。
無自覚という背景には、親がそうだったとか、周りがそうだったということもあるでしょう。
でも、私の段階でそういう考えは終了!!!
見方を変える役目があったのかもしれないですね。
おかげさまで、今はそれぞれの子供達が持つ個性に目を向けるという視点が備わりました(苦笑)
有名高、有名大学にいくこともすごいし、スポーツで大活躍できるのもすごいです。
その子がいるだけで、なぜか明るくなるというのもすごいし、無口だけれどいるとホッとするという存在もすごい。
感性の豊かさを文章で表現する子もいれば、絵や工芸で表現する子もいるし、リーダーシップを発揮する子もいれば、空気を察してサポートする子もいる。
例をあげたらキリがありませんが、何が良い悪いなんてないのではないでしょうか?
子供達の良さは、学校だけで測れるものではないんですよね。
私はそこに気付けました。
気付いたからには、私と同じように悩んでいる方にも伝えていきたいと思うわけで、少しでも子供たちが生き生きと輝ける環境を広げていきたいと思っています。
(その割には更新が少ないぞ!)
悩みって気付いた時点から解消の方向に向かうものなんですよね。
悩みを解消するには、自分の器がほんの少しだけ大きくなればいい。
自分の器が大きくなれば、悩みは悩みではなくなりますからね。
つまり、悩みが小さくなるくらいに自分が成長してしまえばいいんですよ。
これが最大の解決方法と私は思っています。
では、最後に卒業式にまつわる話をして終わりたいと思います。
息子が体験した寂しいもう一つの卒業式
卒業式の前日、息子は髪を切りに行ってきました。
息子が通う床屋さん、実は息子が2歳くらいからお世話になっています(汗)
夫婦でやっている床屋さんで、ご主人は80歳を超えていて、奥様は70代かな。
この床屋さんが今年の3月で閉店することになってしまったのです。
歳のことを考えたら致し方ないのですが、寂しくて、寂しくて・・・(T ^ T)
しかも、最後のヘアカットが卒業式なんて・・・
なんと言いますか、私には言葉に表せない思いが重なってしまいました。
その床屋さんは、いつも温かく、明るく迎えてくれて、まるで実家のような場所でした。
行けば数時間話し混んでくるのが常で、息子の癒しの場、安心の場でもあったんですね。
床屋のご主人は不登校にも理解があって、「無理して行くことない、大丈だから」と励まし続けてくれた一人でもあります。
奥様はいつも明るく冗談を飛ばし、息子を笑わせてくれていて、次第に息子もそれに便乗して奥様いじりをするようになっていきました。
こうやって関係を深めてきていたんですね。
息子ももちろん寂しさを覚えていて、今年は本当に節目の年になるように私には思えています。
私はずっと、
「どうして床屋のおじさんはどうして不登校を理解してくれたんだろう???」
「このような大人がたくさんいたら子供たちが生きやすくなるのに・・・」
と思っていました。
でも、最後にわかった気が致します。
先日行った際には、これまで話したことはない壮絶な子育てにまるわる過去の話もしてくれて、
「これでも、結構苦労しているんだよ」
とニコニコととてもいい笑顔^^
苦労を乗り越えてきたから、人の苦しさも受け止められるんでしょうね。
帰りの車の中で息子が、
「いろんな苦労があったから、あんな風に人を安心させることができるんだね」
と言っていたのがとても印象的でした。
大変な経験があったから、自分自身が成長させられた。
それが見えない「安心」の雰囲気を周りに与えることになるんでしょうね。
そういうことかな?
今回の訪問では完全に聞き役にまわっていた息子。
「悩みがあったらいつでもおいで」と言ってもらえて、息子はどんなに嬉しかったことか(泣)
素晴らしい「ご縁」というのは、今会っている方の中にある、というのも一つの「学び」でした。
しかも、学校では教わらない大切なものでもありますね。
苦労と思える経験が人を大きくするということ。
出会う人を大切にしていくと素晴らしいご縁になることもあるということ。
息子も大いに感じ、学んだことと思います。
こんな学びがあっても良いですよね^^
私はそう思います。
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