不登校の子供は将来どういう仕事につけるの?大学生の息子が考えている仕事とは?

不登校 息子のその後【仕事編】

 

母

この記事は【母】が書いております

 

不登校の子供をもつ親が一番心配に思うことは、

 

「この子は将来どうなるのだろうか?」

「仕事をして生活していけるのだろうか?」

 

というものではないでしょうか?

学校に通えていれば仕事につけるという保証はないのですが、学校に行ってさえいればなんとかなる!と私たちはどこかで思っているところがありますよね?

私も息子がまだ大学生なので、これからどんな職業についていくのかはわかりません。

心配ではないと言ったら嘘になります。

ただ、将来息子が自分で職を選び自立をしたなら、不登校だった事実を否定することもないだろうな、とは想像できるんですよね。

現時点において、息子がどんな職種を選ぶのかやどんなスタイルで働くのかといった私の親の希望もあるわけでもなく、

情熱を傾けられる道を自分で選び、自分の理想、理念を持って取り組んで、生活していってくれたら嬉しいと願っています。

 

高校時代から息子なりに将来のことを考えてはいるようでした。

しかし、高校の時に掲げた目標と現在の目標はこの2年で変化が生まれているようです。

その過程をこの記事で紹介していきたいと思います。

 

【不登校】息子が高校生だった頃考えていた将来の仕事とは?

 

 

高校時代、息子は将来何になりたいと思っていたのか?

以前の私の旧ブログからお付き合いくださっている方はご存知かもしれませんが、息子は【臨床心理士】になることを目標としていました。

では、なぜ、臨床心理士になろうと思ったのか?

これは息子の不登校の経験からきていたもの。

登校できない気持ちをカウンセラーに相談しても、

  • 不登校の子供の気持ちを本当に理解している人はいなかった
  • 心は寄せて理解しようとしてくれてはいるけれど、どうしてもズレがあった
  • 不登校の経験を全て言葉で表現するのは難しく、経験したもの同士でしか伝わらないところがあると気づいた

このような伝わらないもどかしさを感じていたようですね。

ですから、不登校を経験をした俺が、不登校相談のカンセラーになったなら理解してあげられるのでは?と、当時の息子は考えていたのです。

臨床心理士になる目標が決まってからは、大学を選び、それに向けての受験対策を組んで、カテキョーくんと勉強し、大学生になり今に至ります。

 

しかし、大学に入ってから息子の考えに変化が生まれてきます。

さて、どんな変化が生まれたのでしょうか?

それは母親の私も想像できない展開でしたよ。

どんな変化が生まれたかを次に紹介しますね。

 

【不登校】大学3年生の今、息子が将来考えている仕事とは?

 

 

息子が大学に入ってから新たに考え始めた職業は、研究職、教授職、起業です。

息子は大学のドイツ語の講義で、「師」とも言える先生と出会うことができました。

 

 

先生の学問に対する姿勢や抽象度の高い考え方に触れ、自らの体が弱いことに対する仕事への不安などを先生に相談し、現在は将来の仕事に関するアドバイスを受けたりしているようです。

そこには、自分が考えてもいない「えっ?」と思うようなアドバイスが返ってくることもあるのですが、それを受け止めて考えられるか否か?ですよね?

嫌いな人の言葉をフラットに受け入れられる器があれば誰からも学べますが、多くの人は反発抵抗します。

でも、自分が好きな人、尊敬する人の言葉はスーッと耳に入るもの。

息子はその点恵まれていましたね。

こうして新たな考えが息子の中に宿ることになったのです。

 

今までの考え方と違うものに出会うというのは、自分の思考を広げることになりますよね。

ただ、その新しいことに私達は不安になり、抵抗してしまうところもあると思います。

そして、結局は自分の元の領域に戻ってしまって、自分の価値観の中でぐるぐる考えてしまう。

結果、いつまで経っても問題は解決しないし、人生も好転しないということが起こってしまうんですよね。

悩んでいる時ほど自分の考えの中にハマってしまうことが私たちはあるのではないでしょうか?

 

これもよく考えればわかることで、

自分のしてきたこと、自分の頭で考えてうまくいかなかったのなら、人の頭の中にある知恵を素直に借りて、自分の枠外に出て違うことをしてみたらいいだけ。

この方が何かしらの今までとは違う変化があるはずですから。

 

研究職という新たな視点が加わった息子。

その息子が研究対象と考えたのが、大好きな「ゲーム」でした。

 

 

親である私たちは

「ゲームばっかりして!!」

とどちらというとゲームには否定的ですよね。

 

「ゲームをすると脳に悪影響が出る」

などという権威のある方の論文を目にすると、ますますゲームを子供から奪いたくなってしまうのが親です。

 

でも、息子はここで思うわけです。

 

  • 「あなたはご自身でどれだけゲームをしたのですか?」
  • 「集めたデータにご自身がゲームをしたデータはあるのですか?」
  • 「私は、自分もゲームをしてデータを集め、それで研究している人の話に耳を傾けたいです。」と。

 

私たちは権威に弱いですよね。。。

疑いもなく信じてしまうこともしばしばです。

 

でも、そこで、

「本当なの?」

という疑問を持ち、自分で調べることも大切と私は考えを改めています。

 

今、大学3年生の息子は、大学終了後の進路も考える時期にさしかかっているところです。

入学当初は臨床心理士になるために大学院進学を予定していました。

でも、今は、ゲームに関することを社会学的、心理学的に研究する大学院への進学に変わりました。

実際、その大学院の教授に話を聞きにいったりもしています。

このまま行けば、臨床心理士にはならずに研究の分野にいきそうですが、また変わる可能性だってありますよね?(汗)

 

臨床心理士になることも完全に捨ててはいないようで、その辺はまだ迷っているんでしょうね。

でも、必要なら両方やればいい。

むしろ両方やることで、より研究できますしね。

ま、その時はもう一つ大学院に行けばいいだけの話ですし、自分で仕事のスケジュール、金銭面の計画を立ててやるだけ。

そう決めれば道は開くということです。

可能と思って向き合えば可能になることも多いと考えています。

 

【不登校】大学3年の息子の母が、息子の将来の仕事に関して思うこと

ここまで、息子の将来の目標とする仕事の変化について書いてきました。

人は、人との出会いや自らの成長によって考えは変わっていきますよね。

子供のブレブレな考えの変化を目にすると

「あの時はこう言っていたのに、今度はそんなこと言って!あんたは一体何をやりたいの?」

と言いたくなることもあるかもしれません。

でもそこは「視野が一つ増えたね」「成長したね」と思っていただきたいです。

学生のうちはいろんな可能性を見つけて、より多くの選択肢を持つことも必要ですから。

より選択肢を広げ、自分に合ったものを選ぶ方が良いと私は考えています。

 

これもね、不登校の親だからできる有利な点と思います。

もし、息子が不登校でなかったら、私は普通に就職を望んでいて、ゲームの研究には反対していたのが目に見えますしね。

もっと言えば、世間体の良い臨床心理士を強く勧めてもいたでしょうね(苦笑)

これは完全に親である私のエゴ。

でも、私はエゴという事実にさえ気付けていなかったと思うんですよね。

 

 

元号が令和になって、時代もこれから大きなうねりを見せながら変化していくことが想像されます。

AIが仕事をすると言っても人間にしかできないこともありますよね。

  • 相手の心を感じ取ること
  • 人とのつながりに喜びを感じること

などがそうなのではと私は思っていますよ。

AIに心はなく、あるとしたら「こんな時人はこう思う」というデータです。

思いやりを感じる心、直感などは、データで対処できるものではなく、その時の状況に応じた気持ちです。

 

さらに加えていうと、昭和、平成と振り返って、私は「数字って残酷だな」と思うようになってきたんですよね。

  • ◯◯大学に合格するために◯点取る。内申点を◯点上げる
  • 売上を◯◯円にする
  • 〇〇件契約する

数字を追うほどに人の心が失われ、苦しくなっていくように思えるようになったからです。

目に見える目標としては具体的で良いのかもしれません。

でも、本当に大事なのは、

  • その大学を卒業して、どんなことをしていきたいのか
  • 売上やノルマを達成して、その後社会をどのように良くしていくのか

という将来の姿なのではないでしょうか?

 

合格だけを目標にしたら、大学入学後に燃え尽きた感じでモチベーションが下がります。

売上を上げること、ノルマを達成することだけを目標にしていたら、達成したところでまた次の新しい数字がやってきて心が苦しくなります。

 

これからの時代、目に見える数字を大切にしていた時代から心を大切にする時代へと転換していくのではないかと私自身は思っております。

というか、そうなって欲しいと願っています。

 

不登校の子供達は、今までの資本主義的な日本のやり方に違和感を感じている子が多いのではないでしょうか?

今までは否定され、生きづらさを感じることも多かった。

でも、ちょっと見方を変えれば、これからの時代はこの感性を自分で自覚しているこの方が生きやすく、自分の果たす役割も見出しやすいのではないかと考えることもできます。

 

数字で評価するという時代に無理がきていると感じているのは私だけでしょうか?

 

今までの価値観を否定するつもりはありません。

でも、今までは「へっ、そんなこと」と見向きもしなかったことに目を向ける素直さというか、柔軟さを持って考えてみても良いのではと私は考えています。

あなたはどうお考えになりますか?

 

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