この記事は【母】が書いています
今年2020年は東京でのオリンピックが開催されますね。
オリンピックであれ、世界選手権であれ、スポーツは順位が決められるシビアなものです。
今回のハンドボール女子選手権もオランダが優勝して幕を閉じましたが、選手は勝つために厳しい練習を重ねてきて、結果を手にしました(日本は24チームが参加した中で10位でした)
もちろん、優勝したオランダは素晴らしい!
でも、他の国のチームも素晴らしい!
結果だけに目を向けてしまうと、それだけで判断してしまいがちになってしまいますが、それは偏った見方です。
優勝したチームに注目が集まるのは普通のことですし、ニュースでの情報も結果重視で流されます。
私も熊本で観戦していなかったら、結果をネットで知ってそれで納得していたと思うのですが、実際行って観ていると、そんなことはないんですね。。。
なぜなら、現地だから見れるドラマがあるからです。
というのも、今回、私が一番印象に残ったチームというのが、24位のオーストラリアだったからなんですよね。
熊本に行く前、私のオーストラリアチームに対する興味はほとんどゼロ(ごめんなさい😞)だったのですが、終わってみれば、一番私の心に余韻を残したのがオーストラリアチームでした。
どんなことで私の心が動いたのか?
不登校とも大きく関係することだと私は思っているので、ぜひ読み進めてみてください。
オーストラリアチームが私の印象に残ったのはなぜ?
オーストラリアと聞くと、強そうなイメージが湧いてくるのは私だけでしょうか?
ただ、オーストラリアにおいてはハンドボールはまだまだ知名度も低く、競技人口も少ないんでしょうね、発展途上なのは観戦していてもわかりました(サウスポーの選手もいなかったように思います)
熊本滞在中にオーストラリアチームについてインターネットで調べたのですが、実はまだ国際大会では未勝利で、今大会で初勝利を目指すという状況のようでした。
結果だけみれば、今大会でも1勝もできずに24位という順位で終わっています。
初めは正直「勝てないだろうな・・・」という思いで観ていた私。
でも、次第に「初勝利して!」と応援する側になっていました。
オーストラリアの国民性なのか、選手達はみんなとても気さくで、日本のファンにも笑顔で礼儀正しく接していましたよ。
試合後は外にあるフードコーナーで写真撮影に応じていたり、観客とハイタッチをしていたり、観客席で観客と一緒になって観戦もしていました。
私が感動したシーンは、選手が観客席に座って他国チームの試合を観戦していた時に訪れました。
ハーフタイムの時だったかな?中学生の女の子2人が、観客席で観戦している選手に握手を求めに行ったのです。
選手は少し驚いたような表情を見せていましたが、少女2人に対して、立ち上がって、お辞儀をして、笑顔で話しかけながら、両手で、握手していたんですね。
それだけではありません。
その後に、その中学生がいる席の方にわざわざ足を運んで、一緒に写真撮影もしていました。
私も選手が通る通路側にたまたま座っていたので、どさくさ紛れのハイタッチの手を差し出したところ、返してくれたのがただのハイタッチではなくて😭
180センチくらいはあるだろう体を私の目線まで下げて、目を合わせて、言葉をかけてくれながら、してくれたんですよ。
一人一人大切に向き合う姿勢というのを感じました。
国は違うんですけどね、同じ地球人。
変な表現かもしれませんが、地球人として一体感を感じた瞬間でしたね。
これが、私の心が動かされた出来事なんですが、些細なことのように思います?
でも、私にとっては、どんなすごいプレーよりも、一番心に残ったシーンだったのでそのままお伝えしています。
では、なぜ、この選手の行動に私の心が動いたのでしょうか?
それは、それが今の私に欠けているものであり、課題だったからだと思うんですね。
つまり、彼女らが
今、目の前にいる方に真剣に向き合えているか?
その方に対して私ができる最大限のことをしているか?
というメッセージを投げかけてくれたということです。
おそらく、これが今私が向き合う必要のあるテーマ。
前回の記事で書いた、最前列のお客様にサインボールを手渡した選手を目にした時もそうでしたが、できていなかった自分にハッとさせられた出来事でした。
こうした気付きそのものが学びですし、ライブだからこそわかることもあるんだなぁということも学びましたね。
試合では結果を残せなかったオーストラリアチームですが、私の心に大きな感動を残してくれたのは最下位のオーストラリアチームだったということです。
順位というのは結果にすぎない。大切なものは他にもある
「結果が全て!」
スポーツの世界では特にそうかもしれません。
ですが、これはスポーツばかりではないですね。
受験もそうだし、会社に入れば売上や営業成績で結果を求められます。
特に私と同じ世代の方は、時代背景から結果を求められて生かされてきた方も多いのではないでしょうか?
オリンピックにしろ、世界選手権にしろ、スポーツは勝ち負けで、順位がつけられますし、学校においてもテストの点数、成績順位、評価で、順位がつけられます。
このように、順位、成績など数字で評価されてしまうところは、不登校も同じ。
不登校だと学校での評価は低くなるのは避けられません。
それを受け止める必要はあるかもしれませんが、それで傷ついたり、落ち込む必要は全くないと今の私は思っています。
かつての私は「結果が全て」と思っていたんですよ💦
でも今は「数字だけでその人を見てはいけない」と気をつけています。
その成績やら、肩書きやら、それらを差し引いてもその人が魅力的か?
こっちの方がずっと大事です。
不登校であっても、人として魅力があれば良い。
不登校の母親であっても、魅力的な母親であれば良いのです。
今はそう思っていますよ^^
さて、話を数字に戻しますね。
繰り返しになりますが、不登校だと学校の評価が上がることは決してありませんよね?
出席日数が足りなければ、どんなに頑張っても評価は5段階の2どまりです(息子の場合はそうでした)
ただ、息子はなぜか一切気にしなかった。
当時の私は息子の気持ちがまるでわからなかったのですが、
今思うことは、
「1だから何?」
「そんな評価に何の意味があるの?」
「数字で人を見ないでくれる?」
「だったら、逆に俺が先生を評価しようか?」
ぐらいの気持ちを持っていたように私は感じています。
↑
息子の反論を待ちます(笑)
でも、実際は傷つく子供もいるし、傷つく親もいると思うんですよね。
実際私は傷つきましたしね😅
ただ、現在の私は、
「なんでそんなこと気にしていたのだろう???」
と思えているのも事実。
それは、
「数字での評価はたった一面にすぎず、その時の状態を示すだけのもの。」
「人生はそこからいくらでも変えられる」
とも思えるようになったからなんですね。
では、なぜ、そう思えるようになったのか?
時間をかけて考えてみました。。。
数字で表されるものには、例えば、学校の成績、売上、営業成績、健康診断などがあります。
確かに数字での評価はわかりやすいです。
じゃあ、何が問題なのか?
それは、その数字で人を判断してしまうことです。
簡単に言ってしまえば、
- 成績の良い人はすごい
- 東大の人はすごい
- 稼ぐ人はすごい
- 勝てる人はすごい
と無条件で思ってしまうことだと思います。
これって、その人についている飾りを見ていて、その人自身を見ていませんよね?
確かにその部分だけみたら「すごい」けど、そこに満たない人は「ダメ」なんでしょうか?
そんなことはないはずです。
息子の成績表ばかりではなく、自分の過去を思い出しても、私は数字での評価が好きではありませんでした。
数字で出されなくても、自分のことは大体わかりますからね。
なんか、さらにダメ出し感を受けて、心の温度がさーっと下がるような感覚があったように振り返っています。
昔はそういうものと割り切っていましたが、今でもその評価に対する「違和感」があります。
なんか、違うんじゃない?とね。
数字で評価することが必要があるならそれはそれで良いですよ。
でもね、大事なのは数字による価値基準で人を見ないこと、判断しないこと、ですよね?
成績にしても、順位にしても、学歴にしても、肩書きにしても、そのフィルターを通して、人を判断する大人が多いことも問題なんじゃないんですかね。
自分の子でなくても、相手をそうしたフィルターで見ていては、相手の可能性を広げることはできませんよ。
その子が自分の可能性に気付き、自分の才能を最大限に生かせるよう、教え、育てるのが教育と私は思っているので、そこに違和感を感じているのかもしれないですね。
人はどう見られるかで変わるものです。
相手をの可能性を信じる気持ちで見ていれば、相手に変化が現れます。
ですから、不登校は人への見方を変える機会でもあるんですよね。
まずは母親から可能性を広げる目を持つようになれば、良いのではないでしょうか?
不登校のお母さんからそのような目を持って人と接するようになっていけば、不登校の子供達は心が軽くなり、自分の可能性を広げやすくなると私は思っています。
そして、時間はかかるかもしれないけど、あなたの周りからそれが波紋のように広がって行くはずです。
そんな人が増える世の中、私の理想です。
コメント