この記事は【母】が書いております
振り返ると、私にとっては中学時代が一番闇だったと言えますね。
暗黒の闇も経験しましたが、希望の光も見出したのが中学時代。
数年前までは嫌な思い出でしたが、その嫌なことがあったから気持ちを切り替えて動けたし、その後の素晴らしい出会いにも繋がった、と今更ながら気づくのです。
苦い経験も感謝に変わるとはこういうこと。
こうして成長させてもらっているのだと思います。
さて、これから息子の中学時代を振り返って行きますが、息子の在籍した中学校は、校舎が古くて、暗くて、汚くて、環境的にもエネルギーが下がる雰囲気であったことは否めません。
中学の3年間も3人の先生が担任になり、それぞれ良くも悪くも印象に残っていますね。
おそらく・・・
息子自身が一番良かったと思える先生と出会ったのが中学校。
最悪と思った先生と出会ったのも中学校です。
アップダウンの起伏が激しかった中学時代を振り返ります。
【中学1年】完全不登校への意志を固めた中学時代。入学後、何があった???
結論からいうと、息子は担任となった先生との衝突により、入学式数日後に学校に行くの辞めました(笑)
衝突と言っても、息子が言葉で反発をしたというようなことではないですよ。
「この先生は無理!」
と思ってしまう明らかな出来事があったので、行かない選択をしただけです。
1年次の担任の先生は、不登校に対して否定的というか、とても高圧的な行動や言動を示す先生だったんですよね。
普通、中学校への入学は、同地区の小学校からの子供達が持ち上がって、同じ中学校に通うことが多いですよね?
息子は近所に大学の附属幼稚園、附属小学校があったので、学区内の小学校ではなく附属小学校に行っていました。
ですが、諸事情により、附属中学校ではなく学区内の中学校に入学したのです。
ですから、知っている友達は1人のみという状況。
(ただ、この1人は幼なじみで今でも身内にような付き合いをしているA君です)
入学当初の私の気持ちは、全く知らない中に入る方が環境が変わって良いのかも、という期待の気持ちと、ダメかもしれないだろうな、と思う気持ちが半々だったように思います。
ただ、養護教諭の先生にだけは入学前に面談に行って、知り合いがいない状況であること、小学校は不登校だったことを伝えてはおきました。
今思えば、息子自身も頑張ろうという意識があったんだよなぁと思わされています。
入学式も普通に出て、最初の数日間は授業も受け、体験部活まで経験をしてきましたからね。
当時の私は「やっと・・・」と思っていましたが、今なら、
「相当頑張ったんだろうな・・。もっと気遣ってあげれば良かったな」
と思っています。
不登校の子供にとって、学校に行く事にどれほどの苦痛を感じ、どれだけのエネルギーを使っているのか?
あなたは想像した事があるでしょうか?
その苦しさは経験した者にしかわからないのではないかと思います。
息子も次第に通うことができなくなり、その事で養護教諭の先生に2人で相談に行くことになりました。
そして、その時、最悪の出来事が起きたのです。
2人で相談のために職員室に挨拶に行ったのですが、ちょうど養護教諭の先生は不在。
他の先生に保健室を案内され、そこで待つ私達。
そして、しばらくして、そこに入ってきたのが・・・・
鬼の形相をした担任の先生でした。
明らかに頭に血が上っているのは見てとれ、最初に挨拶を交わすでもなく、先生は一直線に息子詰め寄り、
「学校に来れない理由を明確に言ってみろ!」と。
私にはイライラのはけ口を息子にぶつけている風に見えました。
息子はこの時点でKOです。
絶対学校なんか行くもんか!
中には「そんなことで通えなくなるの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれないのですが、そこが不登校の子供に対する理解が難しい部分です。
不登校に理解のある大人でも、実際の子供の気持ちと同じ気持ちで感じるのは不可能だと思いますよ。
それはおそらく不登校を経験した子供だけがわかる感覚。
親が理解できるのは不登校の子供の気持ちではなく、不登校を経験をした親の気持ちですからね。
先生のこの行動を見たときに、私は心の中で、
(先生、不登校の子供にそれを言っちゃダメだよ。ヤバイよ・・・)
早くこの状況を終わらせて抜け出さないと、と焦っていました。
ここはもう母親の直感ですね。
ここから早く逃げないと息子の心が持たない・・と危険さえ感じたのです。
そこに運よく保健室の先生が入ってきて、ブレイクです。
ですが、時すでに遅し・・。
でも、結果として、この出来事は私たちにとってはプラスに働きました。
先生に合わせて、息子を説き伏せて、我慢してでも登校を促すことをしていたらどうなっていたか?
このように考えると、とても怖くなります。
心は重くなる一方だし、心身に更なる悪い影響が出ていたかもしれない。
何よりも、私はネガティブな気持ちを持って大人になって欲しくなかったし、息子には将来に希望を持って欲しかったのです。
ですから、ある意味ダラダラと不登校が続くより、スパッと「行くもんか!不登校!」の意志を親子で固めることができたことは良かったですね。
当時はかなりの衝撃を受けましたが、
そのことで学校に行かない方法を探すことも始めたし、勉強面を今後どうしていくかも考えたし、第三者の意見を乞うためにカウンセリングにも通うことも始めたし、
私自身が通わない方に方向転換して、主体的に動くようになれたのが大きかったですね。
ですから、ここまでスパッと気持ちを切り替えるきっかけをくれた担任の先生には本当に感謝しています。
この出来事がなかったら、きっと私はこれほど積極的には動けなかったはずですから。
振り返れば、ここから新たな出会いもあって息子の人生が変わっていきましたね。
さて、学校を辞めた息子はその後どうしたのでしょうか?
カウンセリングドクターとの出会いからの生活の変化が生まれる
カウセリングドクターを知ったのは、息子の不登校を心配する母が私のために保存しておいてくれた地元紙の夕刊紙ででした。
普通、医師がカウンセリングするときは保険が適用されます。
ただ、このクリニックは自由診療の形を取っていて、患者さんの相談に1時間30分しっかりと向き合い、営利目的としていないのが大きな特徴でした。
私の心が素直に反応します。
「よし、行ってみよう!」と。
どちらかというと直感的なものでしたね。
以前から読んでくださってる方は知っていると思いますが、あのカウンセリングドクターです。
アクが強い方ので、不向きな患者さんも多いです(笑)
でも、息子もそれに負けない位相当なクセがあるので(笑)、良い具合に化学反応を起こしたのでしょう。
ここからは、いろんな面白い非常識的な事が始まることになります。
ドクターが最初の息子にかけた言葉は今でも覚えていますよ。
「〇〇くん、先生は無理に学校に行かせようとしないから安心してね」
この言葉に私がどれだけ安心したか・・・
前述した担任の先生との出来事もありましたし、当時の息子の精神面が本当に心配だったのでね。
それからは月1回のペースで定期的に通うようになり、息子も次第に心を開いて話をするようにもなって、次第にカウンセリングドクターのアドバイスを参考に行動を起こす事が多くなってきましたね。
そのアドバイスのもと、中学1年で新たに始めた事が、
- 不登校の子供を対象とする適応指導教室へ通ってみること
- 家庭教師のトライで勉強をすること
だったように思います。
息子も適応指導教室に行くことを拒むこともなく自分のペースで通っていましたし、そこで出会った友達の家に遊びに行くこともあって、少しずつ生活が明るくなっていくのでした。
【中学1年】回想〜人生の学びがあたくさん詰まっていました
中学一年は、起承転結で言うなら、【転】が重なる激動の時期だったと言えます。
かなりいろいろな出来事がこの1年に凝縮されていますね。
いろいろ勉強になりました、ホント。
最大の学びは、衝撃的な出来事が転機になるということでしょうか。
その時は感情がものすごくかき乱されるのですが、
徹底的に嫌な思いをすることでしがみついていた古い観念を手放すことができることを学びましたし、それがあったことで、カウンセリングドクターとの出会えましたからね。
それと、この時期をなくして私自身の成長はありません。
中学1年は今から7年前になりますが、今の私は、当時の息子の苦しさ、辛さ、悔しさ、頑張りをより深く感じる事ができます。
「本当に頑張った・・・」
「当時、今の気持ちで気づいてあげられなくてゴメン・・・」
こんな気持ちで一杯。
最後に、私が中学1年次に得た教訓をまとめますね。
- 嫌な事を限界まで味わうことで、執着、囚われがなくなるということ
(キツイことですが、とことん嫌な思いをすることで振り切れました) - どん底の状況を経験した後は、必ず上向く何かがあるということ
(どん底で腐るのではなく、別な方向を見たことで活路が見えました) - 人とのご縁が変わるきっかけとなること
登校することを辞める!という一見マイナスのように思える選択が、別の方法を必死で探す行動を起こさせます。
その思いが、母親が保存していた新聞記事の情報を引き寄せた、と言っても過言ではないでしょう。
少しずつ明るさを取り戻していった息子ではありますが、中学2年ではさらに記憶に残る先生との出会いを果たすことになるんですね。
私に不登校に対する接し方を見せてくれた先生でもあり、キャラ的にも思い出すだけで笑える先生。
それは次回に・・・
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