【家庭教師と不登校息子の大冒険 第2回】【こぐま】君との勉強はジャングルを歩く冒険物語

不登校 勉強

 

カテキョー君
カテキョー君

この記事は【カテキョー】君が書いています

母

この記事は【母】が編集しています

 

今回はカテキョー君が書いてくださった記事の続きです。

簡単に前回のおさらいをすると、

  • 出会った経緯
  • 最初に投げかけられた「来たーーー」な内容の質問

をお伝えしました。

今回はさらに心理的な面にも切り込んで、内容が展開されております。

できるなら、静かな環境で一行ずつゆっくり、丁寧に、数回、読んでみてください。

じわーっと理解が深まると思います。

 

それでは早速、どうぞ!

家庭教師の僕からみた不登校の【こぐま】君

セクション2:【〈認知〉というものの非常に大切な働き】

【こぐま】君と私との勉強、その関わりを振り返ると、一つ“なんとなく不思議なこと”に思い当ります。

それは私が【こぐま】君を“不登校生”・“不登校をしていた生徒さん”とは考えていなかったことです。

いや、確かにそれに関する情報は頭には入っていました。

しかし、【こぐま】君との勉強に取り組むとき、その内容や仕掛けをあれこれ考えているとき、あるいは進路を一緒に考えるとき、“不登校”という言葉は頭に浮かばなかったのです。

ここには、ある個人の発達に周囲が関わるときに決定的に重要となる要素、〈認知〉の働きが現れていると思います。

 

 

〈認知〉は認識といってもよく、つまり「AをBと見る・考える・感じる」ことです。

 

上の“不登校”という言葉は一見無色透明なもののようで、ある明確な「認知の型」を示しています。

例えば、本来学校に行くべきなのに行けていない、とか、今は行けていないがいずれ努力して行くべきだ、などのある種かたい『世間の主流・多数派のコースを中心とした』価値判断が暗黙に入っている場合がおおいにあり得ます。

といって、私は“不登校”という言葉じたいを特別悪いものとは思いません。

むしろある生徒さんの状況をひとまずおおまかに捉えようとするときには有効だと思います。

しかし重要なのは、その次のステップ、ある生徒さんがいわゆる不登校という状況にあるとして、

「さてその生徒さんは、具体的・本質的に一体どんな状況を生きているのか?」
「なにを求めているのか?」
「さらにいうとどんな存在になろうとしているのか?」

という〈認知〉の持ち方だと思うのです。

 

では私にとって【こぐま】君はどういう存在として「見えた(認知した)」かというと、

知的探究・冒険をひとりでに独自に行いはじめた少年(のちに青年)

というものでした。

すでに触れましたように、【こぐま】君の発する疑問は知や学問に関する超本質的なものでした。

「1+1は2なのはなぜか?」
「歴史を知る上で人名を覚える意味はなにか?」

という疑問は、知的・学問的に超原理主義的な、巨大な問いです。

 

森や林でたとえますと、それは、

広大無辺のジャングルに宝探しに行くようなもの

です。

 

一方、国民皆教育の学習システムは(おそらく)基本的にみんなが等しく、差がなく学べるようにきちんと整備されています。

都会の中にある小さくて綺麗な公園のようなものです。

 

逆にいうと、【こぐま】君のように超原理主義的な、無限のジャングル的問いに自然と目覚めてしまった人にとって、それは狭すぎ、窮屈すぎ、もう腹立たしいほど退屈に見える可能性がおおいにあるのです。

そしてこのような場合にこそ、周囲の〈認知〉がとても重要な働きをすると思います。

 

都会の公園式の学校教育を面白くないと強く感じる【こぐま】君をどう〈認知〉するか。

 

その〈認知〉いかんによって【こぐま】君の姿はネガティヴにもポジティヴにもどちらにも見えてきます。

そして、そういう〈認知〉がまた【こぐま】君に反作用して影響を与えていったと思います(※1)

※1 補足説明

周囲の〈認知〉から陰に陽に影響を受けるのは子どもや若い人に限ったことではなく、人間は人生の最後まで〈他者の認知〉を気にする生き物なんじゃないかなあと思います。

気にするどころか、人間は〈他者の認知〉を酸素や主食のように食べて生きている動物なんじゃないかとすら思います。

そして、そういう性質は色々なトラブルや生きづらさをもたらすとしても、やはり最終的にはいいものなんじゃないかなあと思います。

〈他者の認知〉をめぐるひきこもごもの喜怒哀楽を介して、人間は他者に出会い、社会を創り出すと思われるからです。

 

 セクション3:【〈認知〉は幻想かもしれない、〈認知の生態系〉を歩む私たち】

先に書いたように私が【こぐま】君に抱いた〈認知〉は、ものすごい知的冒険を一人で勝手にはじめちゃった少年、おもしろい、というものです。

このイメージは、果てないジャングルをおにぎり1つとシャベル1個くらいというほとんど素手で踏破・探索しようとする少年の物語を連想させました。

果たして、この勇敢、というより蛮勇たくましいとさえいえる少年を

 

  • 周囲は止めるべきか?
  • さらに先へ行くことを応援するか?
  • 物語としてどのような展開がおもしろいと感じるか?

 

もちろん私はさらにジャングルに進むことが面白いと感じたのです。

 

とはいえ、それが固い意志になるまでは私の中で紆余曲折がありました。

これについては次回以降書きたいです。

 

そして私の役目は、ジャングルの中を進む【こぐま】君が迷子にならないように道案内をしたり、おにぎりだけでなくポカリスウェットやカロリーメイトを補給したり、ツルハシやスコップを提供することになって行ったのです。

 

 

ところで、ここまで書いてきてなんなのですが、

私の以上のような〈認知〉がまったく間違っている可能性があります。

 

【こぐま】君という存在をかたちづくるものの全目録があるとして、私の〈認知〉がその目録のうち1個にしかかすっていないか、あるいはまったくかすっておらず、まったくの幻想である可能性さえあります。

そして、私の考えですと、それでいいんじゃないかと考えています。

 

といいますのも、そもそも人間はあまり正確に現実を〈認知〉できないという基本的な問題もさることながら、ある人間Aが他の人間Bに関して何かを思うとき、〈認知〉するとき、それは実はほとんどすべて幻想・幻覚のたぐいじゃないか、と思われるからです。

しかしこの人間と人間とのあいだに生じる〈幻想〉=〈認知〉は、ひとたびどちらかに生まれ、両者によって共有されると現実になるという不思議な性質があると思います。

現実になるというか、現実的な効果をもたらすという感じです。

良きにせよ、悪しきにせよ、です。

 

私が抱いた〈認知〉=〈幻想〉がほんとうのところ【こぐま】君にどんな現実的効果を及ぼしたのか、これはまったく定かではありません!(笑)

【こぐま】君本人に訊いても実はよく分からないかもしれません。

しかし、確かなことは、われわれのあいだに確かに何かが生じた・存在したということです。

 

そういう感覚です。

【こぐま】君にとってもそういう感覚があればいいのですが…あって欲しい!(笑)

 

その「何か」を私の側から表せば上のような冒険物語のイメージになります。

 

【こぐま】君の側にも何らかのイメージがあるだろうと思います。

 

そして最後に付け加えますと(上の※1 補足説明でも触れましたが)、どんな人も他者との間にそういう幻想を含んだ〈認知〉のネットワークのなかを生きているのだと思います。

シカは森の生態系を、クラゲは海の生態系を生きていますが、われわれ人は上に書いたような〈認知の生態系〉のなかを生きているように思えてなりません。

そのなかで人は落ち込んだり、傷ついたりもすれば、かえって励まされたり、元気に楽しくなったりすることもできるのだ、と思います。

 

さて、今回は初回ということで好きに書きたいことを思いのまま書いたきらいがありました!(笑)

乱文・雑文となり、読みにくかったり意味がよく分からなかったりしたらすいません!(汗)

次回は勉強の苦労話やその克服方法など、より具体的な・テクニカルなことにも触れて行きたいと思います。

 

ではお読み頂いてありがとうございました!!

 

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