「授業が怖い」と感じていたあの頃〜今まで一番怖かった先生の授業

不登校 勉強

 

母

この記事は【母】が書いています

 

私達が学生だった頃に、みんなそれぞれに好きな先生、嫌いな先生というのがあったと思うのですが、いかがでしょうか?

ふと、嫌いだった先生が思い出されました。

当時の情景を思い出しながら考えていると、意外な発見が見出されるものです。

 

先生も人ですから、性格も違えば、教え方もそれぞれ違いますよね。

その先生に合う生徒、合わない生徒がいるのはある意味当然で、好き嫌いはあっても、良い悪いということはありません。

でも、自分が、

 

なぜその先生が好きなのか?

なぜその先生が嫌いなのか?

 

を明らかにしておけば、その後の人生において、自分はどんな方から指導を受けるのが良いのかいう一つの選択基準にはなると思うんですよね。

 

ただ嫌いだからというだけで拒絶する、というのはもったいない。

 

なぜ私がこんなことを言うのかというと、

私はその先生のことが嫌いだったけど、その先生の授業はよく理解できていた

からなのです。

 

今日は私が嫌いだった先生の例を取り上げて、そこから学んだことをお伝えしたいと思います。

 

とにかく怖かった中学時代のY先生

その先生のことをY先生とします。

Y先生は、中学2年の時の英語の先生でした。

無愛想で、笑うことなんてことはなくて、顔面はまるで能面のよう。

それに加えて体も大きかったので、圧も強かった。

何というか、Y先生が教室に入ってくるだけで、空気が変わるんですよね。

教室内がピリピリする感じです。

 

まぁ、とにかく、あんなに怖かった授業は今まででなかったと言えます。

Y先生の英語の授業がどんな感じかというと、

 

毎回、毎回、生徒一人ずつ指名して問題を与え、その場で答えさせることをしていました。

 

「わかる人?」

と先生が言って、生徒が手をあげるという挙手制ではなく、先生が一方的に名指して答えさせるというスタイルです。

生徒は、もう強制的に考え、答えるしかありません。

そこで答えられなかったり、その答えが間違っていたりすると、Y先生にキッ!と睨まれて、

 

「立っていろ!!!」

 

と立って授業を受けさせられるのです。

 

そして、その答えられなかった質問はそのまま次の生徒の質問となり、正解が出るまで続けられます。

 

まぁ、そのままずっと立って授業を受けるだけならそれでもいいんですけど、その後また不意に名前を呼ばれて答えさせられもするから、気が抜けないんですよね。

 

ちなみに、そこで正解を言えたら、めでたく椅子にすわれます(笑)

 

反対に、そこでまた間違えるとどうなるか?

 

「床に座れ!!!」

 

と今度は床に正座をさせられます。

ま、それ以上の罰はないので、あとは答えを間違っても正座を続けるのみ。

正座で授業を受けるだけですね。

 

あ、それと、ひとつ思い出しました。

答えられなかった質問は、はい次、はい次、と生徒に回って行くんですけど、

あまりに正解がでないと、

 

「お前ら、全員床に座っとけ!!!」

 

となって、全員正座(笑)

全員が正座で授業を受けることもありました。

(光景的には異様ですよね💦)

 

 

当時は怖かったけど、今こうして書いてみると面白いやり方だったなと「ふっ」と笑えます。

 

更に、もう一つ面白い点があります。

それが先生が生徒に答えさせる順番なんですよね。

何回か授業を受けていると、そのパターンが見えてきます。

先生の指す順番というのが、頭の良い順というか、成績の良い順で(笑)・・・

今の私はそのあたりが面白いなと思ってしまいます。

普通は出席番号順とかだろうに、なぜに成績順??ってね^^;

何回も授業を受けていると、「そろそろ回ってくるな」という心構えができるもの。

近づいてくると緊張するのですが、まだ遠い順番だと、他のことを考えたり、ぼんやりもしてしまうんですよね。

Y先生、それを見逃しません(><)

そうやって集中を切らしていようものなら、当てる順番を変えて、

 

「はい!〇〇」

 

と変化球を投げてくる(苦笑)

聞いてないから、もちろん答えられないということになるわけで、そんな態度で怒られたこともありました。

 

と、まあ、授業はこんなスタイルでした。

 

Y先生の授業で私に起きた変化

ただ、結構これが勉強では良かったと私は思えてもいるのです。

むしろ私はY先生の授業で、さらに英語に興味を持ったと言ってもいい。

それはなぜでしょうか?

 

 

それは、Y先生は怖くて嫌いだったけど、授業はすものごく理解できていたからです。

教え方という点では、私に合っていたのだと思います。

当時は、ただただ怖かっただけの授業。

でも、今思えば、Y先生の教え方は私にフィットしていた。

残念ながら、具体的にどんな教え方をしていたかというところまでは覚えていないのですが、私が納得しているということは、きっと論理的であり、体系を意識した説明だったのでしょう。

覚えている中で、私がY先生の授業でよかったと思えているのは次の点です。

  1. 怖いということで緊張していた
  2. 必ず当てられる。だから、授業中は集中していた
  3. 他の友達が解答している間、次はどんな質問が来るのだろう?と問題を予測することをしていた
  4. 友達の解答次第では、自分に回って来る可能性があるので、先生のどの質問に対しても答えを常に考えていた

1と2は、まぁ多分わかっていただけると思うので、3と4について補足します。

他の友達が解答している間、次はどんな質問が来るのだろう?と問題を予測することをしていた

 

 

3も4もですが、先生は両方とも生徒に参加を促していた、ということが言えると思うんですよね。

私達は、できることなら、怒られたくないし、立ったまま授業も受けたくないし、正座もしたくない。

正解を答える努力はするわけです。

ここが一方的に授業をする先生とは違いますよね。

指されたら、答えないといけない。

強制的ではあるけれど、一方的な授業ではなく、相互方向性があったと思っています。

しかも、私は次の質問は?という予測までしているのです。

先生がどんな質問を投げてくるのか、自分で考えて、自分で答えられるようにしていたんですよね。

かなり、主体的だと思います。

おそらくですが、Y先生は考えさせることをして、それを説明させることもしていた。

そのことで、私の理解度も高まっていたのではないかと分析しています。

 

人間は忘れる生き物ですが、最も記憶を定着させることができるのは、人に教えることらしいです。

自分で話すことが、一番頭に残る、ということで、私の中にも残っていたのかもしれませんね。

次に4ですね。

友達の解答次第では、自分に回って来る可能性があるので、先生のどの質問に対しても答えを常に考えていた

友人たちに対する問いも自分に回って来る可能性がある。

ポイントはここです。

人の番だから自分は関係ないでは済まされないってことですね。

改めて思ったのが、

「自分じゃなくてよかった・・・」

と思っていてはダメだってこと。

人のことでも自分のことのように思う姿勢が大切ということです。

しかも、最後は全員正座の連帯責任ですから、なんか生徒の心が一つになれる感じがあったのは確かですね。

そして、友達が怒られていると、心では

「頑張れ!」

と自然と思っていたし、そこにはある種の「和」は形成されていたのかなと振り返っています。

 

Y先生から思う記憶に残る授業とは?

怖くて、圧も強かったY先生。

怖すぎて他のことが見えていなかったけど、退屈とは無縁の授業だったことは確かです。

 

一方的に先生が教え続ける授業というのが、つまらない、長く感じる授業と私は思っているのですが、あなたはどうでしょうか。

 

ただ、聴くだけではつまらないですよね。

こういうタイプの先生は、先生対生徒、つまり、生徒は何十人いても本は1対1で教えている感じになります。

 

先生が教える

生徒は聴く

 

です。

 

 

Y先生のやり方は、質問を回すことで、友人に当てられた質問を自分が考える、という形を作っていました。

また、全員に正座をさせることで、全体性という形も作っていました。

このことにより、生徒たち一人一人が横でも繋がっていたと私は思うのです。

 

 

わかりにくいかな?

 

つまらない授業は、先生と生徒が「縦の糸」で繋がっているだけの状態。

 

Y先生は、先生と生徒の「縦の糸」に加え、生徒と生徒の「横の糸」も作っていた状態。

教室内全員でパスを回しながらゴールを目指すラグビーのようだったと今では思えています。

 

つまり、「縦の糸」だけなのか「縦と横の糸」両方あるのか?という違いがあったと思うんですよね。

 

さらに、生徒に答えさせることを繰り返すことで、記憶の定着も促していたし、教えられる側にとっては、生徒が成長できる場を作っていたと思えます。

 

明るく、楽しく、元気をくれる先生もいる。

こちらは見た目が「陽」だからわかりやすい。

 

Y先生の見た目は完全に「陰」です。

けど、Y先生が意図的にこういう授業をしていたとしたら、私はそこに奥深い愛も感じます。

嫌われ役になりながら、生徒たちを成長をさせていくことをしていた、という点でね。

 

答えを教えることは簡単です。

でも、その子の成長のためには、その子が考えて答えを出すようにすることも必要です。

授業に限らず、何かを教えるという過程においては、相手の成長を信じ、自分の足で乗り越えていけるよう促し、見守っていくことも必要と強く強く思います。

その姿は「厳しい」と映ることもあるでしょう。

でも、本当はそれこそが「深い愛」でもありますね。

 

こうした深い愛は過ぎ去ってから気づくことが多いです。

そこが何とも憎くも感じています。

 

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