不登校を理解するために必要なことは、自我を消すこと

不登校 母親として思うこと

 

母

この記事は【母】が書いています

 

私が「自我」ということを初めて意識したのは、息子が不登校になってから。

これははっきりと断言できます。

「自我」が強すぎると、相手と関係性は当然ながら良いものとはなりません。

わかってはいるけど・・・、これがなかなかできないんですよね^^;

 

息子が不登校になる前の私というのは、自分で決めたことはやり抜く、頑として貫き通す性格。

本当に頑固で、聞く耳を持たない人間でした(苦笑)

そんな私が不登校という思い通りにならない現実に直面し、自分を変える試みとして最初にしたことが、

「自分の考えが間違っているのか?」

と、自分の考えを一旦否定することだったように思います。

 

その後、次の段階に入り、

「もっと相手を自分ごとのように考えよう。」

となりました。

つまり、相手を理解することを意識する、たとえ理解はできなくても理解しようとする気持ちを持って接すること、ですね。

最初は、息子の話に、

「そんなこと言ってもね・・・」

という葛藤の連続。

自分の言い分で言いくるめようとする自分との闘いです(汗)

そして、このように接する試みを幾度もする中で、相手を理解するには自分を消す必要があることに私は気づいていくのです。

相手にとって良いこと、相手にとって正解となることは、相手の立場になって考えることで導けると思うんですよね。

相手の気質を配慮して、相手にとって良いと思われることを探り、一緒に考えるのです。

そこに自分の価値観はいらないし、自分の価値観のせいで相手の良さに気づけなくなる、とも私は気づきます。

自分のフィルターを完全になくすことは無理ですが、相手を知ろうという時は、自分を消して相手を感じようというくらいの気持ちが必要、と私は経験から学びました。

 

でも、現在では、これだけでは不十分と思えています。

相手を理解するためには、自分を消すことは大事です。

でも、何かをするときは、むしろ自分の意志を曲げてはいけないのです。

学校教育の弊害なのか、私は答えを一つに絞りたがる傾向にあって、どんな場面でもその正解とされる一つの答えで向き合おうとしていたところがありました。

でも、実際は両方必要なんですよね。

  • 自分を持って自分を貫くことも大事
  • 自分を消して相手を理解することも大事

両方を正解として受け入れることがむしろ正しい。

要は、状況によって使い分けることができるかであって、どちらかが一方が正しいのではなかったんだよなぁ、としみじみと思うわけです。

 

答えが一つ思ってしまう思考の癖が抜けきらなくて、気づいてハッとすることの繰り返しですね。

上記のケースもその一例だったと今更ながら思うのです。

 

乱暴な言い方をすれば、正解があるのは学校教育までで、学校以外の社会生活においては、正しい答えなんてものは存在しなくて、ほとんどがグレーゾーンです。

私にとっての正解が他の方に取っての正解ではないなんてことは、山ほどあります。

私はこの概念が理解できていなかったです。

 

さらにですが、

 

相手と接する時は自分を消すくらいの気持ちで!というスタンスを持つようになってから、思ってもいないおまけもついてきた!と私は気づきます。

どんなおまけかというと、

相手を知るために自分を消す試みをすることで、自分自身も他人のようにも見ることができるようになってきた、というおまけです。

自分を少し客観視できるようになったという、本当に小さな小さな成長なんですね(笑)

 

前置きが長くなりましたが、

 

不登校の息子との関係性における私の成長の段階をまとめると、

  1. まずは自分の意見を押し付けるところからはじまり、
  2. 相手を理解するために自分を消して相手を受け入れる必要があると感じるようになり、
  3. その努力を継続していくことで、自分をも他人を見るような感じ観察できるようになった、

ということになります。

 

これはあくまで私の経験です。

この3段階について、もう少し詳細にまとめていきたいと思います。

 

1.自分のことしか考えていない段階

不登校は親にとっては本当に困るものです。

何が困るのかが自分ではっきりと答えられないことも実際は多いと思うんですけど、

そんなことを考えるよりも先に「困る」という感情が前面に出てくるんですよね。

これは完全に親からのしつけだったり、教育環境だったりで、そういう考えが自分の中に潜在化しているからだと思うのですが、

親にとっては、

  • 子供は学校に行くものであり、
  • いやでも行くものであり、
  • そもそも学校に行かないという選択肢はない、

のです。

この考えが深ーく潜在化しているがために、信念にも近い考えになっているんでしょうね。

理由はどうあれ、学校は行くものなのです、私たち親にとってはね・・・。

 

そんな考えを持っていた私ですから、

息子の不登校に際しては、パワーでねじ伏せようとしていたし、そうすることに疑いさえも持っていなかったし、行かないことは悪いことと教えようともしていたんですよね。

なぜなら、学校にいかないと困るから。

今なら「何が困るの?」と突っ込みますが、過去の私にそんな問いを投げようものなら、まぁ、大人都合の自分勝手な言い分がどんどん出てくるでしょう。

自分の正論を必死にぶつけてくる姿もありありと想像できます。

 

 

でも、人は学ぶことができます。

やり方がまずければ、事態はよくなるどころか悪化するし、策を変えなければ状況は変わらない。

状況を良くするためのことを考えますよね?

 

「これではうまく行かない。」

「なら、どうしたら?」

 

です。

導かれる答えは人によって違いますが、私の答えは、息子の立場に寄り添うということでした。

 

なぜ私がこの答えにたどりついたかなのですが、振り返り分析してみると、息子に寄り添おうとしてくれる方を直に見たからだと思います。

先日亡くなった友人もそう、不登校を気にせずに付き合ってくれる親子の姿もそう。

不登校とは切り離して、私たち親子と普通に接してくれる方と出会ったからです。

不登校でも普通に接してくださる方に対し、息子は純粋に喜び、楽しさ、安心を表していたし、私自身も嬉しかった。

私はその体験をすることで、

「これが私に欠けていたんだ・・・」

と気づけたんだと思います。

 

これは、かなり、自分でもショックでもあったんですけどね💦

でも、反発ではなく、受け入れることができました。

 

そして、第2段階の息子の立場になって考えるというフェーズに入っていきます。

 

2.相手に寄り添うことを決意して接する段階

「自分中心ではなく、相手の立場になって考えてみる」

これは、できそうでなかなかできません。

相手がどのように感じているかは、相手と同じ立場にならないとわからないんですよね。

あなたはあなたのように考えるし、私は私のように考える。

それが持っている価値観の違いというものですね。

当たり前ですが、相手は自分とは違う人間です。

趣味嗜好も、価値観も考え方もまるで違うと思った方がいい。

だからこそ、相手を理解する時は自我は要らないのです。

しかしながら、この自我ってとっても厄介で(苦笑)

相手の考えに違うものを感じた時に「おいっ!」と顔を出してくるのです。

さらに、自我が顔を出したことに気づかずに突っ走ってしまうこともあるのです。

これでは、相手は引いてしまうのが目に見えます。

関係はむしろ悪化しますよね。。。

自分の意見、感情が入り込んで自分ごとになったとたん、全てがオジャンとなってしまうのです。

 

 

私は、この自我というものに気付いてから、本当に悩まされるようになりました。

何度も相手と自分との違いにぶつかっては葛藤を繰り返しています。

これは人間関係が続く限り、ずっと続くものでしょうね。

でも、こうして葛藤を繰り返すことで自分の癖を発見できるようになったことも事実でした。

それが、自分のことにも気づくという次の段階になります。

 

3.相手を知る努力をすることで自分のことにも気付いていける段階

まず、相手の言うことに反応するということは、

「自分がこういう場面にぶつかると、イラっとする」

という確認になります。

これは、自分の価値観とかけ離れるほどに強い感情となって現れてくると思います。

その後の行動は人によりけりで、

  • 自分の価値観で圧倒してしまうのか
  • また始まった・・・と引いてしまうのか
  • 聞いているふりをして、やり過ごすのかetc

いろいろでしょう。

まぁ、いずれも自分の価値観とは違うから排除しようとするんですよね。

だからこそ、価値観がぶつかった場面を書き留めるなりして自分で認識することが大切と私は思っています。

なぜならば、それが自分の価値観からくる思考の癖だからです。

 

 

「自分はこういうときにこういう考えるんだ」

ということを、反発を感じた時に確認をしておくということです。

 

おそらく、相手は、

「そういうあなたである」

ということは間違いなく知っているでしょう(苦笑)

 

そう考えると、恥ずかしくもなるし、怖くもなります。

いかに自分が未熟であるかということも思い知らされもします。

言ってくれる方がいればいいのですが、黙って、やり過ごして、関係が悪くならないようにしてくれる方が多いですよね。

だからこそ、自分で気づいて、直していくことが大切と私は思っています。

 

相手のことを知ろうとすると、必ずどこかで自分の心とのぶつかり合いが生じるものです。

これらは相手のことを知るのと同時に、自分のことを知ることにもなっています。

言われてみれば、ごくごく普通のことのようなんですけど、私にとっては閃きに近いものでした。

気づくことで自分の癖も直す努力ができるので、結構大事なことと私は捉えています。

 

まとめ

相手との関わりにおいて、自分を消して相手を観察するというのはとても難しいことです。

でも、私の場合はそれが自分を知ることにもなっていたのです。

これが私にとっては驚きでした。

 

そもそも、自分を消すことがまず難しい。

でも、理解できないものを理解しようと努力することで、少しずつ相手の気持ちがわかり、共感できるようになってくるのです。

完全に同じように感じるということはないかもしれませんが、近づくことはできると思います。

多くの方と接し、いろんな考え方に触れることで、自分の共感能力は高まります。

キャパも広がります。

そのことで、今まで見えていなかったものが見えるようになり、引き出しがどんどん増えていくんでしょうね。

それが成長でもあるし、相手との関係をよくしていくことにも繋がるし、何より自分の心の安定に繋がっていきます。

こうして考えると、大変だけど得しか残らないと思えています。

 

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