不登校の選択は自分の人生を自分で選択するという自立心の第一歩

不登校 母親として思うこと

 

母

この記事は【母】が書いています

 

不登校をネガティブに捉えてしまうと、ネガティブな側面しか見えなくなる。

ネガティブな側面しか見えなくなると、ますますその見方が硬直化する。

これは不登校の子供を持つ親に限らず、多くの大人が陥ってしまう罠であると私は思っています。

どうしても人はいろんな角度から物事を見るということができない、自分のメガネを持っているもの。

私自身も何度もそんな場面に直面し、ハッとさせられ修正を繰り返す日々です。

今回は敢えて、

「子供が不登校を自ら選んだ」

この選択こそがその子の人生を変えていくことになる、という視点で展開していこうと思います。

 

不登校は子供の自立につながる立派な選択

おそらくあなたも、子供が学校に通わないことに関して、

「学校に行きなさい!」

と何度も言ってきたことでしょう。

きっと、学校に行く必要性も何度も話してきたでしょうね。

でも、子供は学校には行かなかったし、行けなかった。

そのことで、親はガッカリしたり、イライラしたり、心配になったり、不安になったりするわけです。

でも、これは全て自分の思いが通らなかったことによる親側の反応であり、親側の感情ですよね?

 

 

ただし、今回はちょっと視点を変えますね。

「子供は自分で不登校を選んだ」

これは実はすごいことなんだ!

と考えてみます。

子供は、親や周りの人からなんやかんや言われても、結局は「自分で不登校を選んだ」ということ。

自分の人生の選択の一つが不登校だったということですね。

親側のネガティブな感情は一旦脇において、ここでは逆転の発想でポジティブな見方をしてみたいと思います。

もう一回言いますよ。

子供は「自ら学校にいかないことを選んだ」のです。

親や先生に促されても、周りの声には流されず、自分で決めた。

私はこの事実に注目をしたいんですね。

 

見方によっては、

「わがままを言っている。」

と取ることもできますが、果たしてそうでしょうか?

 

私はこの自分で選択するという行為が、今後はもっと重要になってくると考えました。

 

なぜ不登校を選択するということが重要なことになるのか?

私が注目したいのは「自分で決めた」という事実です。

 

 

ここで、あなた自身の人生を少しだけ振り返ってみていただきたいのですが、これまで、周りに倣っていろんな選択をしてきたということはないでしょうか?

  • 周りが進学するから、自分も進学を考える
  • 周りが就職活動を始めたから、自分もそろそろ就職活動をする
  • 周りが結婚するから、私もそろそろ結婚する

こんな感じです。

これらはどれも自分で選択をしているように見えます。

でも、これらの選択は、ここで言う「選択」には入りません。

それは、周りに合わせるかのように自分が選択しているからですね。

主導権を周りに預けているのがわかるでしょうか?

このように流されて選択をしてしまうと、人は人生のどこかで迷うときが来るように思うのです。

「私の人生これでよかったのだろうか?」

そういう迷いです。

実際、私はそうだったので、私のケースをお話します。

 

自分がどう在りたいかより、どう見えるかを意識してきた私の選択

 

 

私は就職に有利になるようにと大学は経済学部を選択し、経済学部と辻褄が合うようにと会計という職種を選択し、さらに辻褄を合わせるように会計の資格を取って・・・という人生を選択してきました。

誰からのアドバイスに従ったのではなく、自分で選択をしてきましたよ。

この一連の流れをみたら、もしかしたら芯がある選択に見えるかもしれません。

ですが、実際はそんなことは全くないです。

分がどう生きたいかというよりも、周りからどう見えるかという「見え方」が大事にしていたからです。

当時はそれに気づくこともなくて、ごく自然な決断だったんですよ(悲)

でも今の私から見れば、自分をよく見せたいという「見栄」でしかない。

自分の本心と向き合わずの選択してきたのですから、人生で悩む時が来るのは当然のことですね。

息子が喘息でなかったら、息子が不登校でなかったら、私はそのまま本心に向き合わぬまま突っ走っていたようにも思います。

そう考えるだけでちょっとゾッとするのですが、だからこそ、昔の私に言えることもあります。

 

ですから、

もし今の私が過去の私にアドバイスをするとしたら、

 

「収入や資格よりも、自分がどんなことに情熱を注げるのかをもっと素直に柔軟に感じてごらん。」

「できるかできないは後から考えよう。自分の本心に沿ってまずは考えてみてもいいんじゃないの?」

 

というような感じでしょうか?

(おそらく昔の私は頑固なので耳を貸さないでしょうが笑)

私の20代は数字とか結果とか目に見えるものが重要視された時代だったというのもあるので、自分の選択になんの違和感も持っていなかったというのはありますね。

でも、今ならそんなことはしません。

数字や結果を求めると自分が苦しくなるし、悲惨なことになることが本当に分かってしまったので、結果よりも努力する過程を大事にします。

結局、周りに流された人生というのは、自分で選んでいないのですから、文句も出てくるんですよ。。。

そんな環境にはなかった・・・

そんなことは許されなかった・・・

そんな時代ではなかった・・・etc

とね。

実際口に出してしまうこともあるでしょう。

でも、聞かされている側は言い訳のようにも聞こえるので、良い気分はしないものですね。

そして、こうも思うわけです。

「それに甘んじる選択をしたのはあなたじゃない?」

「そんなことを言う位なら、やれば良かったんじゃないの?」と(汗)

 

でも、自ら選択したならば、人のせいや周りのせいにはできない意識が多少なりとも働きます。

自分で選んだのだから努力もしますよね。

親に反対されて何かを貫くなら尚更です。

つまり、自分で選択することで、

  • 自分の人生を自分で創ることにもなるし、
  • 選択の「自由」を知ることにもなる

のです。

わかりづらいですか?

自分で責任を負う覚悟があれば、自分のやりたいことをできるし、なんでも選べる自由があるということです。

人に指図される人生を生きる必要もないし、周りに人生を決められることもないということです。

自分で選択するということは、そういうことです。

 

「あー、生き切った」

と言える人生は、自分で選択して、その過程で悔いが残らないよう努力をした人生ではないでしょうか。

自分で選択をしたなら、人生を全うできると思います。

 

さて、話を戻します。

不登校の選択がなぜその子の人生に良きものとなるかについてですね。

それは、たとえ不登校であっても、子供にとっては自分で下した大切な選択である!からです。

 

不登校の選択はその子の人生の選択でもある

 

 

当たり前のように学校に行っている子は、自分でその選択しているんだ!という意識は、ないでしょう。

でも、不登校の子供は決してそうではないですよね?

強い意志で「行かない」ことを選んでいます。

 

普通に学校に通った子は、将来、周りに流されて「私も・・・」と、私のような選択をしてしまう可能性もないとは言えない。

一方、不登校の子供は、周りに倣うことを拒否し、これからも自分でいろんなことを選択していくようになるかもしれない。

自分の本心に耳を傾けながら生きられるのは、不登校の子かもしれません。

もっと言うと、不登校の子供は不登校を選択したことで、周りに流されない選択をすでにしています。

 

人生とは選択の連続ですよね?

これから周りの意見を気にしながら選択をしていくのか?

それとも自分で決めて選択していくのか?

この選択で人生における自分のあり方は大いに変わってくるように思えます。

子供は不登校を選択し、不登校という環境の中で努力していくことを選択した。

おそらくこれからも、自分で選ぶことを繰り返すことで、自分の世界を作っていくことができるだろう、そういう要素を持っているだろうと私は考えます。

 

あなたは、周りに流されずに自分の選択に沿って生きてきたと言い切ることができるでしょうか?

自分で自分の人生を創ってきたと言えるでしょうか?

周りに流されないで生きてきたと言えるでしょうか?

選択とはそういうことだと思います。

 

不登校の選択は自分の人生を自分で選択するという第一歩である。

そのように考えてみる。

不登校の子供達の選択にこのような目を向ける視点を加えていただけたら幸いです。

 

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